2013年5月20日月曜日

神学こそが最強の学問である(後半)

第4章まで四苦八苦しながら読み込み、半分くらい理解できたものの、5章、6章は。。。

第5章 宗教は「戦争の世紀」にどう対峙したのか?

まずヒューマニズムという言葉で躓く。日本において多くの人は「ヒューマニズム」を人道主義・博愛主義の意でとらえられている。本文では言葉に忠実に人間中心主義として使われている。ここは誤読しかねない。以下の文で人間中心主義だと判別できる。
ヒューマニズムがナショナリズムと結びつくことによって、結局は第一次世界大戦という惨事を引き起こした(p178)
4章まではシュライエルマッハーの考えを中心に展開してきたが、5章からはバルト神学に移る。バルトはシュライエルマッハーの「神が内面化する」という論理が神学を哲学に変身させる恐れがあるとした。外部性を喪失した形で捉えるとそれは一種の汎神論になる。

まぁここまでは理解できる。ところがシェリングになると全くダメ。
シェリングの世界観では、この世の中は泥沼のようなもので底は見えません。しかし底なし沼とはいえ、底の底のほうまで潜っていくと、「無底」という名前の底がある。その無底の向こう側に神の世界がある。無底に触れることができるような、一種特殊な才能をもった人は瞬時にして世界の構造を知ることができると考えるわけです。
 詳しく説明しましょう。神は収縮している。神が縮まったぶんできあがった場にわれわれは生きている。この場は人間のもつ自由意志によって悪の領域に変わってしまった。
 (中略)
これはユダヤ教の神秘思想であるカバラ的jなものであるのみならず、実存主義を先取りした考え方です。(p186-187)
はい、お手上げです。次にいきます。
高山岩男は中庸という考えに反対するといっています。なぜか。極端な立場Aが誤謬だとします。そして、それと反対側の極端な立場Bが誤謬だとすると、誤謬と誤謬の中間も絶対に誤謬であるというわけです。だから、中庸などはありえない、真理というのは極端なところにしかないというのが高山岩男の考え方です。
 カール・バルトも同じ考え方をとります。つまり、個性を最大公約数に求めるような発想を厳しく斥けます。日本人とは何かを考えるとき、われわれはいま、シュライエルマッハー的理解になっていまっている。つまり日本人の平均像に日本人の個性を重ねるわけです。収入はどれくらいか、何歳で結婚したのか、その平均的なところに日本人の特徴があると考えてしまう。(p192)
これは目からウロコの考え方でした。ところがその後の否定神学になってまた???
否定神学というのは「何々ではない」という形での否定表現のみをつらね、その残余の部分を真理であるとする方法です。
 ビザンティン神学の伝統においては、否定神学のほうが圧倒的に真理に近づくのに適切な方法だと考えられていました。もし、否定神学的な方法で神を定義すると、神とは一切の述語表現を超えたものであるということになる。つまり、積極的に神について語らないことによって、逆説的に神について知ることになります。(p194)
全くもって理解できませんが、否定することで真理に近づく手法はDTPの世界でもあります。
出力トラブルの原因特定がそれに近いかな。

16ページ物の出力エラーが発生した→8p、4p、2p、1pと流しトラブルページの特定→テキストを削除し流し、画像に問題があるかテキストに問題があるか特定→特定箇所の半分を流し絞り込んでいく。この繰り返し。でもまぁ慣れれば、勘が働きポンとそこにたどり着きます。

っと、話を戻して
キリスト教のイメージでは、真理というのは楕円です。つまり、焦点が二つある。信仰と行為です。両者は一体となっており、切り離すことはできません。キリスト教における異端的な言説は、焦点を一ヶ所に集め、楕円を円に近づけてしまいます。(p199)
著者のイメージは左ですが、自分のイメージは右です。
新約聖書以降、現代に至るまで、キリスト教の理解では神から人間に直接啓示が降りてきたことはありません。もし、神からの啓示が降りてきたと言う人がいたら、その人はキリスト教徒ではありません。(p202)
ここは誤解されやすい表現だなぁ~。神からの語りかけはなくとも聖霊からの語りかけがある。そして創造主なる神、救い主なる御子キリスト、助け主なる御霊(聖霊)の思いは全くもって同じ。個人的には三位一体の立場から聖霊の語りかけは神の語りかけと捉えて問題ないと思ってる。でもって、現代は聖霊の時代、「使途の働き」は「聖霊の働き」ともよばれている。
バルトは、自由主義神学の時代に新約の中でももっとも軽視され評判の悪かった、ローマ書という保守的なテキストを読み直すことにしたのです。そして、このテキストを通じて神はわれわれに何を語りかけているのか、このテキストを通じて危機の時代に対しわれわれは何を語ることができるのかということを、徹底的に究明したのです。(p205)
各教会で行っている聖書研究祈祷会がこれですね。

第6章 神は悪に責任があるか?

キリスト教神学の立場からは、汎神論を受け入れられるか、受け入れられると考えると、すでに創造されたものすべての中に神の意志が入っていることになる。そうすると啓示が降りてくる場がなくなってしまいます。(中略)それこそが、神が遍在しているこの世に、なぜ悪が存在するのかという問題なのです。(p211)
 では、広島・長崎の原爆はアメリカ人に善意が欠如していたから起きたのか。そうではない。アメリカ人は善意であの爆弾を作ったわけです。戦争犠牲者をこれ以上出さないために、原爆を投下したのです。アメリカ人の真意は別にして、善悪とはこのように相対的で、歴史観が異なれば善悪は容易に反転します。(p212)
 汎神論というのは、この世に悪が実在することを認めた瞬間に汎悪魔論になります。この世の中には神ではなく悪が満ちていて、総和すると巨悪が生まれるという理解になってしまいます。(中略)そこで、神が正しいということを証明するのが神義論もしくは弁神論です。(p214)
で、プロセス神学なるものが紹介されてたのですが、もう「神の収縮」で理解不能です。
ゴーガルテンになると脳みそが発熱してしまいます。
聖書というテキストを解釈することと、信仰告白を行うこととの間には断絶があります。(p221)
信仰告白前に聖書を解釈すればそうなると思いますが、神が何を自分に語っているのかと問いながら読めば断絶など起こりえないと感じてます。

弁証法神学は信仰者の応答責任を重視したゴーガルテンの手法を突き詰めていくと、ナチズムに反対するばかりでなく同意する道もできてくる(両義性)。←メモ

で、ここまで書いてダウン。ギブアップです。なんか神学を追求すればするほど信仰から離れていく気がします。はい、専門家にまかせましょう^^

「自分探し」という言葉がひと昔前に流行りました。自分が何をしたいのか、何に向いているのかです。50過ぎた今の自分もそれです。自分の思いとは別に神の目的があります。神の目的(自分に何を期待しているのか)が分かれば、それに向かって一直線なのですが、それが分からない。
 信仰告白をしてキリスト者となったものには全員、約束の聖霊が与えられています。そして聖霊の賜物があります。個々人によって違います。

聖霊の賜物と務めのサイトでやった結果、自分には 

24.接待
泊る場所と食べ物が必要な人に、暖かい愛の心で(もてなし)歓待する賜物(I ペテロ 4:9)

17.助ける者
他の人を助けつつ、彼らの持つ賜物を活用して教会成長をもたらす賜物(I コリント 12:28)

があるようです。聖霊の働きを敏感に感じることが必要だと感じてます。

2013年5月16日木曜日

神学こそが最強の学問である(前半)

統計学が最強の学問であるが売れているらしいが、タイトルの通り。
はじめての宗教論 左巻―ナショナリズムと神学

一読しただけではちと難しい。右巻を読んでないためメモ書き。
 ところがプロテスタントには、イエスがキリストであるということを認めない教派もある。たとえばユニテリアンがあります。イエスは救い主ではなく、偉大な教師だったという主張です。プロテスタントの規範からすると、キリスト教の基準というのは、イエスが救い主であることを認めるかどうかにあるでしょう。しかし、ユニテリアンがキリスト教から排除されることはありません。
 そのほか、統一教会(世界基督教統一神霊教会)はどうかというと、教団は文鮮明師をメシアとします。イエス以外のものを救済主とすると、これはキリスト教の公理系違反になるわけです。もっとも、統一教会がキリスト教から派生した新宗教であることは、間違いありません。一部のキリスト教徒が統一教会を目の敵にして、攻撃するのは間違っています。伝統的なキリスト教と統一教会の差異を正しく認識し、相互に信仰を尊重し合うことが重要です。(p33)
ここでいう一部のキリスト教徒に当てはまるのはワタシですw いくらなんでも、これは論外だと思ったものの、著者はインテリジェンスの世界に身を置いていたわけで、この視点から見ると氏の本心ではないと勝手に推測。異端だと宣言した相手から貴重な情報を引き出すことはできないでしょう。と同時に、諜報の世界で統一教会が無視できない存在であることが窺える。

 20数年前、統一教会の信徒とは韓国教会に身を置いている時に出会った。もっとも彼が統一教会の信徒であることはかなり後になって知ったのであるが。。。
 彼は聖書勉強がしたいと教会にやってきた。私たちは疑うことなく彼を受け入れ、一緒に聖書勉強をしていた。
 どうも統一教会の信徒の方は、社会的に非難されている団体のためか、本当に自分の信じているものが正しいのか?の疑問を持ち、他教会にきて確信を得ようとする傾向があったように感じられた。
 また教会が統一教会に乗っ取られかけたという話も耳にしたことがある。求道者を装い教会に来て洗礼を受け、熱心に活動し教会の中心人物になり、牧師を追い出し。。。

 彼が教会に来たのは確信を得るためだったのか?それとも計画的だったのかは今もって不明。
ナショナリズムというものは、人間が作り上げた国家という偶像への信仰を強要する、きわめて危険なものだからです。キリスト教は貨幣とナショナリズムには警戒しなければならない。しかし、貨幣と国家なしには、二一世紀に生きているわれわれの生活はもはや成り立ちません。(p66) 
これは信仰者においては継続的な課題。で、本書で答えは出てない。シュライエルマッハーの教会=国民=民族の「神は内に宿る」の理論を紹介。内面に絶対者が居る「解釈の過剰性」。
ナショナリズムの理想は生への拒絶と死への愛であるというケドゥーリーの指摘は問題の本質を衝いています。(p75)
まぁ、この辺りは右翼の自爆テロ的切腹自殺を見れば理解できる。
このように、メタ学問として学問の世界全体を統括するのが神学の役割だというのが神学の側の自己認識です。だから、ヨーロッパの総合大学において神学部がないということは考えられません。(p102-103)
著者の立場は、まさにここにあると感じられる。神学は長い年月、あらゆる疑問、指摘に答えられるように理論的に完成されている。そして神学を神学の中に閉じ込めることなく現実世界に適用している。まぁ、この辺の応用力というのは本当に頭のいい人しかできないことであり、自分には無理。それゆえ、この本を読み知恵熱が出たのです。w
人にはそれぞれ天命がある。その職業につかないといけないというのがキリスト教の職業倫理です。(p111)
天職をベルーフ、単に金を稼ぐのをジョブと区別している。天命が分かって仕事に就いている人は幸せというしかない。50を過ぎた今でも自分は天命、天職というのが分からない。

本書には記されていないが、聖霊の賜物というものがある。個々人によって違うものらしい。これすら私には自分がどんな賜物を持っているのか分からない。教会によるのだろうが、聖霊の賜物、聖霊そのものについて語ることはほとんどない。DTPが天職、天命だと思っていたが、復帰の道が途絶えた今、それは全くの思い違いだったと思わざるをえない。
受肉論という比較的狭い専門分野でも、同志社大学神学部図書室の関連文書を読むだけで二〇〇~三〇〇年かかる。(P113)
神学をやっている人を全員集めたからといって神学の全体をつかめるわけではない。(中略)
 全体をつかめなくとも、他の分野はだいたいどうなっているのかという概説的なことは知らなければなりません。組織神学を専攻している人でも歴史神学や聖書神学や実践神学について一通り知っていないといけない。そうしておけば専門外のことについても、専門家としても明確な判断はできなくとも、おかしな議論に対しては「あ、この議論はずれているぞ」とか「これは、デタラメだな」ということはわかる。(P114)
このために勉強するのですね。「学問のすゝめ」。なお、神学と哲学の違いを神学は身体、哲学はそれを包む衣服としてます。倫理は救済のためにどのような正しい選択をするかという、自らの決断。
弁証学というのは一言で言うと、敵・外道との喧嘩のための学問。キリスト教以外の人々との関係において、キリスト教が正しいということを証明するのが弁証学です。それに対してキリスト教の内部、つまり他のキリスト教のグループに対してわれわれのグループが正しいという証明をするのが論争学です。(P144)
右翼と左翼の関係が弁証学、内ゲバや内部闘争が論争学。弁証学は教会に対する敵意を退けるための弁護。論争学は異端審問学。

で、個人的にうなづけたのがP146に出てくる理神論。
最初の第一撃は、神によってパコーンともたらされた。そして、その一撃の後は全部、物理の法則で動く――このような考え方です。
まぁ信仰に入る時というのは、このパコーンという第一撃を誰しも経験しているわけです。そしてキリスト者に共通するのが「あなたの人生の中で最高の出来は何でしたか?」の質問を受けた時、誰しもこのパコーン体験を答えるのです。(ひょっとしたら違う人もいるかも知れません)
 早い話が教会というのはこのパコーン体験を持つ人の集まりでして、イエスキリストのファンクラブだと思ってもらって間違いありません。違ってたらごめんなさい。
 その一撃の後は全部、物理の法則で動く――は異論おおありなのですが、いつも神を身近に感じてるわけでもないので、まぁ良しとしましょうw 大事なのは最初のパコーンなのです。好きだなぁ、このパコーンという表現。

祈りという行為をとおして、神の声を聞く。しかしシュライエルマッハーの構成では、それは、イエス・キリストによる啓示ということではなくて、「宇宙の直観」「絶対依存の感情」という形で自分の良心の声を聞くことになる。(p157)
未信者と話して「神の声」などとこちらが言うと「それは良心の声なのでは?」との疑問を受けることがあります。よく引き合いに出されるのが遠藤周作氏の「沈黙」に出てくる声です。良心の声は自分の内にあるものが出てきますが、「神の声」は自分の中にはないところから来ます。ロドリゴが聞いた声をもともと自分の内に持っていたのなら彼は宣教師にならなかったでしょう。
プロテスタントはカトリックから分離するときに自らの絶対的な正しさを主張したのではなく、わが道を行くという形をとったからです。ここにプロテスタンティズムの原点があります。(p161)
教会を替わった人にはすっと理解できる箇所です。と同時に教会を離れたことで罪意識に襲われる人には読んで欲しい箇所です。「神の声」が聞こえたとき、それは真実です。でも全ての人に適用されるわけではないのです。聞こえたあなたにとってだけです。だから恥じることなく自信を持って示された道を歩んでください。
「イエス・キリストの十字架上の出来事を完成させるのはアーリア人種の長であるアドルフ・ヒトラー総統だ」と言う場合、これは異端になる。(p167)
ヒトラーを文鮮明に置き換えると氏の本心が分かりますw

と、第4章までメモったけど無駄なページがひとつとしてなかった。理解できないところも多々ある。著者とは同年代なのだが、学生時代遊び呆けていたのと追求していた人との彼我の差を感じざるを得ない。突っ込んで勉強する気も能力もないがキリスト者として最低限の基礎知識はつけておかねばな。